群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

『長い読書』

 島田潤一郎の『長い読書』読了。
 筆者は1976年生まれで、自分と2年しか生まれ年が違わないということもあり、とても親近感を持って読んだ。筆者ほど私は若い頃に読書や執筆にコミットしていたわけではないけれど、内省的な学生生活や聴いていたアルバムのタイトルなどが、いちいち自分の昔を思い出させる。例えば、次のような文章。

 レコファンで出会ったCDのことを書こうと思ったら、この本の三分の一はそれらの思い出で埋まるだろう。ぼくはこの店でサニーデイ・サービスの『東京』を買い、ベックの『オディレイ』を買い、フィッシュマンズの『宇宙 日本 世田谷』を買ったのであり、週に二日はこの店へと続く階段を急ぎ足でのぼっていた。 p30

 あとは、おそろしくシンプルな言葉を使って人の心に訴えかける文章を書くな、ということ。読み進めていくうちに、筆者はそのことに自覚的であることが分かった。いわゆる文体(スタイル)というものに自覚的なのだ。

 本を読みはじめたばかりのころは、難解な語彙や、カタカナで表記されるようなあたらしい用語に強く惹かれた。
 ぼくはそれらの言葉を言葉をノートに写し、積極的に自分の書くものに用いたり、文芸研究会の友人たちとの会話でつかったりした。
 二〇歳そこそこの大学生の目には、語彙が豊富で、修飾語などの表現が豊かな作家こそ、力量のある作家に映った。
 でも本を読めば読むほど、すぐれた作家とは決してそういう作家ではないのだ、ということがわかった。
 初めてドストエフスキーの本を手に取ったときに驚いたのは、その分厚い小説のなかに難解な語彙がほとんど出てこないことだった。
「あ、ぼくにも読める!」
 そう感じたときのよろこびは、いまも忘れられない。 p75

 ひとりの作家の本に惚れ込み、その文体に強く影響を受けるということはすなわち、その手持ちの限られた単語の意味合いが変わるということだ。あるいは、その一〇〇の単語の組み合わせ方がこれまでと変わるということだ。あるいは、その一〇〇の単語の組み合わせ方がこれまでと変わるということだ。「こころ」という言葉や、「自由」という言葉、「わたし」や「ぼく」という主語、「そして」や「しかし」、「とにかく」といった接続詞の意味合いまでが変わり、接続の仕方も変わる。
 すると、言葉で捉えられる景色が変わる。考えられる内容も変わる。ぼくは昨日までの言葉とは違う言葉の連なりで自分を理解し、未来を想像しようとする。 p76

 その後筆者は出版社を立ち上げ、こうしてエッセイが出版され、著作が世に出ることになる。
 ただ、夏葉社を立ち上げ、出版人として本を出版することで、小説家を目指していたときのような、物書きとして自分の本を出したいという思いはなくなっていたのではなかろうか。
 ときどき、大人になって物書きになる人とはどういう人なのか、ということを考えることがある。
 まあこの世の中だから、書こうと思えば誰でも書ける。私みたいにブログで書くこともできるし、ZINEで出版することもできる。
 才能で書いている人もいるし、物書きとしてしか生きられない人もいる。
 選ばれたとしか思えない人、何らかの力が作用しているとしか思えない人もいる。
 あとは、人との出遭いである。パートナーや恩師、縁がある人たち、大切だと思える人たちとの出会い。あるいはそういった人との死別が刻印となって、人を物書きにする。島田さんの場合は、長年の文章修行の経験をベースに、いとこの方との死別があって、出版人、物書きへの道が開けたのではないかと推測するのだけど。