図書館で『クラバート』を借りたのは、『図書館、山へ分け入る』で青木海青子さんが書かれた次のような文章を読んだからなのだった。
プロイスラーは「わたしが『クラバート』で表現しようと試みたものは、ひとりの若者が――当初はただの好奇心から、そしてのちにはこの道を選べば、楽な、けっこうな生活が確保できるという期待から――邪悪な権力と関係をむすび、そのなかに巻きこまれるが、けっきょく自分自身の意志の力と、ひとりの誠実な友の助力と、ひとりの娘の最後の犠牲をも覚悟した愛とによって、落とし穴から自分を救うことに成功するという物語です」(383頁)と語ります。闇の深さ、夜の暗さを凌ぐために、魔法の明かりを灯すことがある。けれど時がくれば、魔法を手放して、自らの手で火を灯し、明かりを持ってその足で歩かないとならない。そうしなければ、いつか自分自身が誰かを閉じ込める「親方」になってしまう。
『図書館、山へ分け入る』では、ファンタジーから映画まで多様なテキストが引用され、文章は弱者の視点に寄り添いながら、学術的な整合性をも意識したものであり、読みごたえがあった。他にも伊丹空港の中村地区に関する文献や、『さんかく窓の外側は夜』『海が走るエンドロール』などのマンガも紹介されており、ぜひ読んでみたくなった。
当時、「命からがら逃げ出して、逃げ出した先で図書館を作った」というのは受動的な行為で、ただのなりゆきではないか、主体性のある行為ではないじゃないか、との言葉も受けましたが、私はそうは思いません。その場から奔走することで、その場がいかに一つの原理で覆い尽くし例外を抹殺しているか、その場で生きることがどれだけ苦しいかということを主体的に、切実に表現することができるのだと今でも信じています。
今年になって柚木麻子の小説をずっと読んでいる。彼女は女性の生きづらさや、その背後にある仕組みのようなものを一貫して書き続けている。とりわけ良かったのが『終点のあの子』だった。女子校での生々しい感情の揺れ動きやパワーバランスを描いた本作は、4つの短編から成っているのだが、4つのうち3つはビターエンドで終わる。だが、最後の4つ目の短編にだけ希望を残すのである。4つのうち3つをビターエンドで終わらせたのなら、4つ目もビターエンドで振り切ればいいのに、とも思ったが、この4つ目のエンディングがあるから主人公もこの小説も救われている。本当、格好よくも何ともないエンディングなんだけど、それが良い。ちなみに本作には2人の主人公がいるが、もう1人の主人公のその後については書かれていない。それはある程度、彼女の将来というのが見えているからではないか。書く必要はないと作家が判断したのだろう。柚木さんの小説はエンパワメントよりも、女性の生きづらさのほうが良い。