群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

引き出す自分、引き出される自分

 「僕らの時代のライフデザイン」という本を読んでいたのですが、以前、僕も同じように考えたことのある文章があったので、ちょっと引用してみたいと思います。

"複数の自分"なんていうと大げさな話のようですが、実は、ほとんどの人が無意識に自分の多面性を使い分けています。
 職場の自分、家庭の中の自分、プライベートの自分、親としての自分、子どもとしての自分など、誰もが多くの顔を持っているでしょう。
 しかし、これまでは何となくそれが一つであることがよしとされてきたというか、確固たる自分というものを持つ人がいいのだという認識があったと思います。どこに行っても変わらないただ一つの自己を持ち続ける人こそ理想的だというものです。


 僕は十代のころ、話す友人ごとに自分のふるまいが異なり、そんな自分に違和感を感じた憶えがあります。そんな自分を自然に受け入れられるようになったのは、二十を過ぎたくらいだと思います。
 話す人ごとに自分のふるまいが異なるといいますが、考えてみればそれは当たり前だと思うのです。僕という人間の持つ資質と、相手の持つ資質の重なるところに、僕と相手の態度は表層化され、形づくられると思うのです。現実に表層化される自分の態度やふるまいは、相手や、所属するグループに引き出されるものであって、相手やグループが違えば、引き出される自分も違って当然です。僕が相手に引き出されている一方で、僕も相手を引き出しているのです。そんなのは誰でもやっていることであって、違和感を感じていた僕のほうがおかしかったのだと思います。
 それにしても面白いのは、この本の著者の米田さんがやられておられることです。ある種の文学者や芸術家は時代の病を引き受けると何かで読んだ記憶がありますが、米田さんのような方は、時代の一番新しい風を吸い込んで、こういう生き方もありえるんだという可能性を模索し、それを実践されておられます。古い生き方を疑い、新しい可能性のかたちの部分において意識的なので奇抜に見えるかもしれませんが、こういう類のことは米田さんがやられておられなくても、いずれ誰かがやっていたんだと思います。僕は、時代の最先端の生き方を実践することはできませんが、今はそういうこともできる世の中であり、ツイッター以上に人間関係のあり方を変える潜在性を秘めたメディアがこの先出てくるのかどうかはわかりませんが、これからもそのあり方は変わり続けていく可能性があるということを頭にとどめておきたいと思います。

僕らの時代のライフデザイン 自分でつくる自由でしなやかな働き方・暮らし方

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