群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

構文解析力

 引き続きレイモンド・カーヴァーの"Fat"(邦題「でぶ」)を読んでいました。ところが、1か所わからないところがありました。こういう文章です。

Me, I eat and I eat and I can’t gain, I say. I’d like to gain, I say.
No, he says. If we had our choice, no. But there is no choice.

 うろ覚えなのですが、何かおかしいと感じたらそこはほぼ間違っている、というようなことを以前翻訳の先生が言われていたことがあって、僕もこのニ、三年でそのことは痛いほど感じていて、その経験から言うと、現時点で僕はこの文章をほぼ間違いなく理解できていないのです。こういうのは、前後の文脈と照らしあわせたり、あれこれ組み合わせたりしながら、しばらく考えるしかありません。風呂に入っているときや散歩をしているときに、考えるともなしに考えていたら、ふとわかるときもあります。
 構文解析ということでは、故山岡洋一さんが次のようなことを書かれています。→リンク先で読めます。

 もうひとつ、「語学力」というときに重要な構文解析力についていうなら、翻訳者と翻訳学習者では実力が大きく違うのが普通だ。翻訳者も原文の構文解析を間違えることは少なくないのだが、そのときには原文の意味が分からないために訳文が書けなかったり、書いた訳文が意味不明になったりする。これが警告信号になり、構文解析の間違いに気づいて考え直し、調べ直すことが多いので、長く翻訳を続けていると、自然に構文解析力がついてくる。翻訳学習者と実力が違うのは、翻訳が学習の過程になっているからなのだ。

 わからない英文が出てきたときに、あれこれと考えて意味を把握するというのは、僕にとって楽しみのひとつです。と同時に、山岡洋一さんの「翻訳が学習の過程になっている」という言葉は、僕にとって大きな励みになっています。しばらくあれこれ考えたいと思います。
 ……と考えているうちに、ピンと来ました。邦訳を確認したところ、意味も合っていました。また明日から前に進めていきたいと思います。