群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』

 スズキナオさんの『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』を読む。これまでスズキナオさんの本に関しては、パリッコさんとの共著など、主にお酒を題材にしたものを多く読んできたが、本書では、筆者の家族についての個人的な記憶の集積がつぶさにつづられている。当然のことではあるが、スズキナオさんがどこにでもいる二児の父親であるということがわかって親しみを感じたし、家族についての個人的な話を読むことで、スズキナオさんという人間に好感を覚えた。
 とはいえ筆者は、家族を完全に肯定した書き方をしているわけではない。子供が反抗期に入ったり、親戚や家族の病気、死別を経るなかで、その感情は常に揺れ動いている。

 なぜこの人たちと、こうして一緒にいるんだろう。「だって家族だから」という、答えにならない答えしか、私にはない。近くにいる理由も、こんなに近くにいてもそれぞれが別々の人間だということも、ずっと考えているのにやっぱり全然わからない。

 たとえパートナーは選べたとしても、親は選ぶことができない。またパートナーにしても、他人といえば他人であって、一緒に暮らしていてもそのすべてを理解することはできない。この時代においても、なぜ家族という形でともに生き、暮らすのか。
 昨今、特に、家族制度は破綻していると言われている。書店に行けば生きづらさが書かれた本を多く目にするし、そのような本を読むと、その原因は家族に端を発していたりする。家族制度に抗うかのように、拡大家族的な生き方も見られる。そのような時代において、筆者は自分にとって家族とは何かを問うてみたくなったのではないだろうか。

 様々なことが変わり続けている中で、私たちの家族もまた、変化していくだろう。数年後には長男が一人暮らしを始めたりして、そうなれば毎日のように顔を合わせていた日々が懐かしく思い出されることになるのかもしれない。思いがけないことをきっかけに家族が形を変え、気づけばそれぞれ遠いどこかにいることだってあるだろう。

 筆者が破綻のない健康な家庭で生まれ育ったことは、文章から分かる。本書でつづられるエピソードのいくつかには、読者も自らを重ねるのかもしれない。私もほんの少し前まで可愛がってもらっていたと思っていた祖父母もとうに亡くなり、親も大病をした。自分も中年のただ中にいる。否応なく、ときの流れというものを感じる。毎日同じような生活を続けているようでいて、少しずつ年を重ね、環境は変化している。
 家族とは距離を置いて生きる人間もいるし、家族から逃れられない人間もいる。ただ本書を読むと、抗えないときの流れのなかで、周りの人たちと今のひとときを大事にして生きなくては、という思いにさせてくれる。