群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

「デイヴィッド・ホックニー展」(に行きたい)

 にわかにアートづいているワタクシ…。今一番見たいのは、東京都現代美術館で開催中の「デイヴィッド・ホックニー展」です。しかし先日、お洋服に散財した私はそんなものに行けるはずもなく…。アホでしょうか…。とはいえ、行きたい…。他のブログで「ホックニー展を見に行きます!」なんていう投稿を見ると、垂涎です。ホックニー展を見るためだけに東京に行きたい。貯金を切り崩そうかなあ…。とりあえず、画集を借りてきました。この人はパースペクティブというか、視点にフォーカスを置いて表現しているアーティストですね。東洋の物の見方からも非常に影響を受けています。どうにかして足を運んでみたい個展です。

 で、それからぼくは、抽象と具体とふたつあるという考えかたというのはほんとうは間違っていると気づいたんです。まるごと抽象かまるごと具体かのどっちかで、ふたつあるんじゃない、と。古代の中国や日本のアーチストは、みんな抽象だといったはずでしょう? あのすばらしい北斎は、自分は抽象的な見方をするといったんでしょう? 西欧の美術では、そこに大きな区別をつけるはずですが、東洋の美術では、けっしてそんなことはなかったんじゃないか、という気がする。で、じっさい、そのほうが正しいと思うんです。真実だと思う。

 ぼくはとくにアイソメトリック(等角)パースペクティブに関心があるんですが、あれは日本画でも使われているんじゃないですか? 線はいつも平行でけっして交わらない。ぼくの展覧会は日本でもかなりな規模でおこなわれているけれど、みなさんが興味をもってくださるのはそういった空間の扱いかたなのかな、と思う。それをたぶん、感じとっているんですよ。その意味で、ぼくは東洋的な空間意識があるように思います。ぼくの作った映画の中では、この問題が軍事的な技術にどうつながっているかに触れています。ですからこれは、ひとびとがふつう考えているよりははるかに深いテーマだと思います。そして、これは、どのようにこの正解をみるかという、抽象の世界なのです。
 われわれは、ややもすれば、写真の世界でさえ抽象なんだということを忘れてしまい、これが現実だと思ってしまうんですね。

――しかし、ヨーロッパの画家でも……例えばセザンヌの場合「サント・ヴィクトワール」でそれまでのヨーロッパ的なパースペクティヴとは異なった見方をしていると思いますが。

 そうした変化が起きたきっかけ、つまりパースペクティヴに対する態度の変化は、自分とは異質なものをみることによって始まったのです。すなわち、それは日本からパリにもたらされたものです。19世紀、ヴァン・ゴッホや、セザンヌ、マネにしても、みんな日本のものに大いに影響されたんです。彼らはみんな日本の版画が彼らとは違った空間の表現方法をもっていると気づいたんです。それがきっかけとなってヨーロッパ以外のものも見るようになった。そして、最終的にキュビズムが生み出されたというわけです。日本をみて悟った彼らは、ついには、アフリカ、そしてオセアニアにまで関心をよせるようになった。そこにはもっと深いものがある。異なった空間があると気づいたのです。ぼくは、ただ彼らのあとを追っているに過ぎません。そうすれば、もっと多くのものを見ることができるわけですから。日本美術の自然の様式化が、いかにシンプルで、かつ真実を語っているかを目のあたりにしたヴァン・ゴッホが、どんなに興奮したか想像できますよ。とてもスリリングなできごとであったにちがいありません。ヴァン・ゴッホは、日本の絵画をコピーしたにすぎない。彼は、日本に行ってみたいとまで考えていた。

(『デイヴィッド・ホックニー (SHINCHOSHA’S SUPER ARTISTS)』より引用)