群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

映画

 30代後半に、結構映画館で映画を見た。映画を見始めたのは学生の頃だが、その頃はもっぱらレンタルビデオで見ていたので、映画館で見るということで言えば30代後半の方が多い。パルシネマしんこうえんで『セッション』や『海街diary』を見て、夜のモトコーを余韻に浸りながらひたひた歩いて帰った。せっかく1,200円なり1,500円なりを出して見た映画が全然つまらなくて悔しくなり、お金も残り少ないのにあり金をはたいてもう一本見たら、最高の映画に当たったりした。
 学生時代以来、映画はいつもそばにい続けてくれたが、最近は疎遠になりかけている。いつ頃からかなと思い返してみると、やはりコロナが一つの契機にはなっている。もうそろそろコロナはええやろ…という雰囲気になってきた今もなお、映画館に足を運ぶ気にはなかなかなれない。加えて、90分なり2時間なり時間を割いて、一つの映像作品を見続けるのがいささかしんどくなってきた。このサブスク全盛の時代だから、見ようと思えばいくらでも見れる。それにも関わらず、映画を見る時間は減っている。最近なんて、PCのモニターで映画を見ながら画面の横のスペースでゲームをしている始末である。こういうのが映画体験と言えるのかどうなのか。もはやお茶を濁しているとさえ言えない気がする。学生の頃に見た『キッズ・リターン』を超える映画体験はもう出来ないと言いたくない。それには新しいものを摂取するしかない。しかし読む本に関しても、文学や小説の割合が減り、ノンフィクションやエッセイが増えた。好むと好まざるとにかかわらず、自分は物語というものから離れつつあるのだと感じる。
 個人的に学生時代というのがかなり生きづらさを抱えた時期であり、同時に感受の豊かな時期だったから、映画が友人のようなものだった。あの頃に映画を見るというのは、自分の孤独と青々しい感受が邂逅する、稀で得難い体験だったのだと思う。40代に入り、私は映画館から離れ、本屋さん(そしてたまにリサイ●ルショップ)でお金を使うようになった。30代後半に映画館に通ったあの日々は、長年の友人でいてくれた映画がくれた、線香花火が見せる輝きのような最後の親密な時間だったのではないのかしらん。