そろそろ卒業したいのは、この禁欲と買い物の連環地獄の毎日です。
今週のお題「卒業したいもの」
奈倉有里『ことばの白地図を歩く: 翻訳と魔法のあいだ (シリーズ「あいだで考える」)』を読了する。
翻訳をする前に、翻訳する本の内包する全体像をしっかりと把握し、目的を誤らないためにはどうしたらいいか。答えは簡単で、とにかく読めばいいのである。といっても、ふつうに「読んでみる」ていどではわからないことも多い。個人的な例だが、私の場合は翻訳をはじめる前に10回は通読する。作品の朗読音声やオーディオブックがあるときはおおいに活用する。たまに人から「翻訳が早い」と言われることがある。確かに翻訳をはじめてから完成させるまでの期間はなるべくそれに集中して一気にやろうとするので、そう見えることもあるかもしれないが、ほんとうは翻訳をはじめる前にできる限り多くの時間をとっている。 p126
まずは普通に通読し、「初読の感覚」を覚える。驚いた場面、思わず泣いてしまった箇所、気が緩んで笑顔になったところ、ドキドキした展開など、このときの感覚は特別注意を払わなくともわすれないことが多いが、とくにすごいと感じた場所はしっかりと心に留めておく。大事なのは、この時点では「どう翻訳するか」などということは考えないことだ。なるべく作品世界に入り込み、原語だけで思考し、母語の読者とできるだけ同じように、ただ読むことに没頭し、驚きも涙も感想も思考も解釈も、原語で頭に蓄積させていく。それからまた何度か読み、疑問に思ったところや、資料を調べなければいけない箇所に付箋を貼っていく。全体の構造やリズムが把握できたと思ったら、さらに何度か読んでいく。そうするうちに、ようやく翻訳先の言語である日本語のことを意識しはじめる。つまり、あくまでも自然に日本語が浮かんでくるまで、何度でも読みながらじっと待つのだ。 p128
この人でも、翻訳する前に10回も原書を読むのか…。おそらく著者には、母語である日本語と同じぐらい鮮明に、ロシア語で原書の世界を見ることが出来るのだろうな。「あくまでも自然に日本語が浮かんでくるまで、何度でも読みながらじっと待つ」。これは、これまで私が翻訳を教わった先生方もおっしゃっていたことだ。最近は私も、いきなり訳すのではなく、できるだけ英語の言葉を自分のなかで沈殿させてから訳そうと努めている。でも、まだまだ上手くいかない。多分翻訳をする際には、読解力だけでなく、話したり、書いたり、聴いたりという、英語の運用能力を総動員する必要があるのだと思う。そして私の場合、英語で見ることのできる世界の解像度がまだまだ低いと感じる。第二言語としての英語で見る世界の解像度を(理想を言えば日本語と同じくらいに)上げることは、従来からも、そしてこれからも変わらず課題なのだけど、何といっても、やっぱりこれは、難しいのだよなあ…。
先日購入させていただいた、西村功先生の『ダンチッヒ小路』について。
ふと湧いた疑問。『ダンチッヒ小路』って何ぞや、と…? 「小路」っていうわりには、描かれているのは洋館だし…。よっぽど問い合わせようかと思ったんだけど、インターネットで調べたらいろいろと詳細が記されていた。
西村功先生のリトグラフ作品『ダンチッヒ小路』についての説明より引用。
ダンチッヒ小路の館
モンパルナスの近くにある。貧しい外国人の住んだところといわれている。ポーランドからキスリングが、ロシアからシャガールが、イタリアからモジリアニが、エコール・ド・パリと呼ばれる時代の人たちが、ここで制作していたらしい。
円に近い多角形の古いアパルトマンで、古い歴史を偲ばせる静かなところである。レジェも4年間過ごしたといわれている。
やはり、ダンチッヒ小路ではなく、ダンチッヒ小路の「館」だったのだ。
「モンパルナス」「画家」「洋館」などのキーワードで検索してみた。どうやらこの建物は、ラ・リューシュ(蜂の巣)という館らしい。
ラ・リューシュ(La Ruche、フランス語で「蜂の巣」の意)は、パリ15区にある集合アトリエ兼住宅である。1920年代に芸術家がコミューンを形成したモンパルナス地区の南側に位置し、エコール・ド・パリの画家・彫刻家が集まった場所として知られる。ラ・リューシュはアール・ヌーヴォー様式の3階建てロタンダ(円形建築物)で、当初は約140室を備え、中央の大広間では作品展示会「ラ・リューシュ展」が行われた。また、モデルを雇って画家たちがデッサンをする「アカデミー」と呼ばれる部屋や約300席の「リューシュ・デ・ザール」劇場もあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5より引用
まさにこの館である!
1920年代に、パリにはエコール・ド・パリと称される外国人芸術家たちが存在し、この「ラ・リューシュ」は、なかでも貧しい作家たちが集まった建物らしい。この時代のことは、本で読んだことがある。フジタがキキを描いた同時代のパリに、この建物はあったのだな。階段のある丸い建物の中に放射線状に部屋が位置したため、蜂の巣(ラ・リューシュ)と呼ばれるようになったという。実際に部屋が借りられていたのか、活動拠点とされていたのかは、よく分からないところがあるらしい。
あと一点気になった箇所…。A.P.とは? これも検索したらすぐに出てきた。寡聞にして知らなかったが、A.P.とは"Artist's Proof"の略で、作家保有用の版画作品を指すらしい。
西村先生が実際に所有していたのかどうかはよく分からない。そもそも企画したのが海文堂ギャラリーみたいなので、海文堂ギャラリー側が持っていたものなのかもしれない。何はともあれ、縁あって我が家に来てくれたのだから、大切にさせていただこうと思う。ちょっと青味がかっているところも気に入っている。
本日は、三宮へ。北野のギャラリー島田で、津高和一先生の作品を予約して取り置いてもらっていたので、それを受け取りに。地上階と地下階では「コウモリ書林」が開催されていて、本や絵画など、オーナーのコレクションがわりと求めやすい値段で出されていました。地上階で、作家の方の名前は存じ上げないのだけど、北野の界隈を描いたと思しき作品が3500円ほどで出品されていて、「西村功先生の絵にちょっと似ているな…。3500円だったら、ぎりぎり買えなくもないな…」と考えていたのです。地下階も見てから決めようかと思って、地下階に降りてコレクションを拝見していたら、何とその中に、まさにその西村先生の作品が1100円で出されているではありませんか! これはもう、即買いしてしまいました。津高先生の絵とともに家に持って帰ったのですけど、何だか西村先生の作品を買えたことの方が嬉しくて、西村先生の作品をワークデスクに飾ってしまいましたよ…。こういうことはそうそう起きることではないのでしょうけど、必ずしも、絵の値段と得られる喜びは比例しないんだなと…。一つ、身をもって学ばせていただきました…。絵を家に持って帰る道中私は、かつてないほどのユーフォリアに包まれていたといいます…。
スズキナオさんの『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』を読む。これまでスズキナオさんの本に関しては、パリッコさんとの共著など、主にお酒を題材にしたものを多く読んできたが、本書では、筆者の家族についての個人的な記憶の集積がつぶさにつづられている。当然のことではあるが、スズキナオさんがどこにでもいる二児の父親であるということがわかって親しみを感じたし、家族についての個人的な話を読むことで、スズキナオさんという人間に好感を覚えた。
とはいえ筆者は、家族を完全に肯定した書き方をしているわけではない。子供が反抗期に入ったり、親戚や家族の病気、死別を経るなかで、その感情は常に揺れ動いている。
なぜこの人たちと、こうして一緒にいるんだろう。「だって家族だから」という、答えにならない答えしか、私にはない。近くにいる理由も、こんなに近くにいてもそれぞれが別々の人間だということも、ずっと考えているのにやっぱり全然わからない。
たとえパートナーは選べたとしても、親は選ぶことができない。またパートナーにしても、他人といえば他人であって、一緒に暮らしていてもそのすべてを理解することはできない。この時代においても、なぜ家族という形でともに生き、暮らすのか。
昨今、特に、家族制度は破綻していると言われている。書店に行けば生きづらさが書かれた本を多く目にするし、そのような本を読むと、その原因は家族に端を発していたりする。家族制度に抗うかのように、拡大家族的な生き方も見られる。そのような時代において、筆者は自分にとって家族とは何かを問うてみたくなったのではないだろうか。
様々なことが変わり続けている中で、私たちの家族もまた、変化していくだろう。数年後には長男が一人暮らしを始めたりして、そうなれば毎日のように顔を合わせていた日々が懐かしく思い出されることになるのかもしれない。思いがけないことをきっかけに家族が形を変え、気づけばそれぞれ遠いどこかにいることだってあるだろう。
筆者が破綻のない健康な家庭で生まれ育ったことは、文章から分かる。本書でつづられるエピソードのいくつかには、読者も自らを重ねるのかもしれない。私もほんの少し前まで可愛がってもらっていたと思っていた祖父母もとうに亡くなり、親も大病をした。自分も中年のただ中にいる。否応なく、ときの流れというものを感じる。毎日同じような生活を続けているようでいて、少しずつ年を重ね、環境は変化している。
家族とは距離を置いて生きる人間もいるし、家族から逃れられない人間もいる。ただ本書を読むと、抗えないときの流れのなかで、周りの人たちと今のひとときを大事にして生きなくては、という思いにさせてくれる。
Shohei Ohtani homers in his @Dodgers #SpringTraining debut. 💥💥 pic.twitter.com/o6vMUHKUR4
— MLB (@MLB) 2024年2月27日
大谷さんの、オープン戦でのホームラン。この内角のボールをレフトに運ぶって、どういうことなんですかね…。やっぱり内側からバットが出てるっていうことなんですかね…。パワーでメジャーを圧倒する選手が日本人から出たことに、ただただ驚くばかりです。いや、国籍を問わず、あなたのような野球選手は今後出てこないのかもしれませんね。今年も活躍を楽しみにしています。
プライベートでも、おめでとうございます。野球のことしか頭にない、野球マシーンかと思われていたあなたでもお幸せになられたのに、私は今なお、この世において生き恥を晒しております。
リサイクルショップに行ったら、ふと見つけてしまったVANSのスニーカー。VANSって自分とはカルチャーが違うからと、今まで履いたことがなかったのですけど、サイズがぴったりですし、1700円とお手頃ですし、ソールもほとんど減っていなかったので、誘惑に抗えず買ってしまいました。バイトに履いていくのにちょうどいいかなと…。やはり何事においても、食わず嫌いはよろしくない。こういう偶然との出会いこそ、リサイクルショップに足を運ぶことの醍醐味よなあ…。普段白いキャンバススニーカーばかり履いている中で、こちらは珍しいスエード地。いつものローテーションの中で新鮮な存在になりそう。良い気分で、神社で参拝して帰宅。道中ふと、今日が祖母の10年目の命日であることを思い出しました。祖母が亡くなったのが、10年前の今日。ちなみに、祖父の誕生日は閏年の2月29日。二人が亡くなったのは同じ年齢で、●●歳。帰宅して、いつもより入念に、お線香をあげておきました。