群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

『街とその不確かな壁』

 村上春樹の長編『街とその不確かな壁』が、久しぶりに(というと怒られそうだけど)面白かったので、書き留めておきたい。
 村上の『街とその不確かな壁』は、一章がほぼ『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をなぞる形で書かれている。主人公と彼女の過去が書き加えられている(主人公は高校生のときに女の子に失恋をし、その傷を引きずりながら生きている)。大きく違うのは、街から出た二章だろう。現実の世界で主人公は図書館館長の仕事に就くのだが、前図書館館長の子易さん(の幽霊)と出会ったり、コーヒーショップの女店員とつき合い始めたりする。主人公はどのような形で彼女に再会するのだろうとそのことばかり考えて読んでいたのだが、途中でこれは、どうやら一緒にはならないのだろうということに気づき始めた。本書はどうやら、再会の物語ではなく、過去の呪縛から解き放たれる物語なのである。そうすると、二章の子易さんのエピソードや、コーヒーショップの女店員とのやり取りが、急に生き生きと色づき始めるというか、切実さをもって感じられるのである。二章の頭で主人公は自らの意に反して現実の世界に戻ってくるわけだが、その時点で彼にまだ本当に戻る資格はなかったのだろう。資格という言葉は正当ではないのかもしれない。他のブログでは、二章で主人公は子易さんや女店員を癒やし、また癒やされているという指摘があり、なるほどと思った。主人公は彼らとの交流を通じて、本当に現実世界に戻る自分を取り戻していくのである。
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』というのは、多くの人が村上の最高傑作として挙げるくらいで、そりゃ面白いのだが、私は今回の『街とその不確かな壁』についても確かに面白く読んだ(最近の『色彩を持たない多崎つくる』や『騎士団長殺し』がひどすぎたせいもあるが)。全盛期の活劇や文体には及ばないかもしれないが、ここには『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を補う何かがある。ラストで主人公は再び現実の世界に戻ってくる、というところで物語は終わるのだが、彼女と再会したりはしないのだろう。多分彼は、あの人のところに戻るのではないだろうか、と私は思ったのだが。
 こういう話を先日、風文庫のHさんとしていたら、えらく盛り上がった。Hさんはイエローサブマリンの少年により、村上はバトンを次世代の作家に託した、というようなことをおっしゃられていたが、そういう視点はなかったので、なるほどなと思った。出来ればもう一度読んでみたいのだが、時間的な制約もあるし…(それにしてもこの人の小説は長いわりに、異様に速く読める)。