群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

カフィーソに感じた伸びやかにすぎる不安

 僕が普段聴く音楽は、50〜60年代の、いわゆるたけなわのころのジャズが多いんだけど、これは石油をバリバリ食べているようなもので、あまり健康的でないことは自覚している。最近のものもたまには聴かなきゃなと思い、何年か前にはHMVのジャズコーナーをちょくちょくひやかしていたころもあったんだけど、あるとき、そのアルト・サックスに一発でヤラれて即買いしたのが、フランチェスコ・カフィーソである。
 イタリア人である。白人直系のアルト・サックスは実によく鳴き、聞いていて惚れぼれさせられた。部屋のコンポに載せて何度も聴いた。
 ところが、カフィーソを繰り返し聴いているうちに、なんだか不安を覚えるようになってきた。そのサックスの音は伸びやかすぎるのだ。そこには韜晦とか、挫折とか、人生におけるどうしようもないやるせなさ、もどかしさ、切なさ、前に進んでいくことの狂おしさといったものがあまりに欠落しているんじゃないか。欠落しているというよりも、この音色はそもそもそういったものを知らないんじゃないか。今にポキッと折れてしまうんじゃないのか。折れてしまったら二度と立ち直れないんじゃないのか。あまりに伸びやかで健康的なその音が孕む、“知らないことの危うさ”のようなものに不安を覚えてきたのだ。
 ところが調べたところ、このカフィーソ、僕が購入した"New York Lullaby"を録音したときわずか16歳だったという。やるせなさも狂おしさも窺えないわけである。
 下のカフィーソの動画は2010年に演奏されたライブでのもので、アドリブはなかなかにアブストラクトになり、さすがに真っすぐにすぎる不安のようなものはなくなったように感じる。若すぎるというのもなかなか大変なんだろうなと思う。 

ニューヨーク・ララバイ

ニューヨーク・ララバイ