群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

井上よう子展、三沢かずこ展

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 三ノ宮へ。井上よう子展、三沢かずこ展を見ました。両先生の色味は私がいくらフォトショップをいじっても出せませんので、ぜひ北野のギャラリーSでご鑑賞ください(回し者ではありません)。
 三沢先生の絵も井上先生の絵も以前に拝見したことがあるんですけど、どちらも素晴らしかったです。特に井上先生の絵に関しては、以前とは違う感受を受けました。三沢先生とのやり取りでは、なにか自分自身が試されているかのようでした…。やはり絵描きの先生というのは石井先生に限らず、より高いところを目指して日々やっておられるのでしょうね。上達すればするほど、より高いところに登るのは大変だと想像するのですが。
  私が初めて絵画の青に惹かれたのは、笹田敬子先生の作品です。笹田先生の作品では、青という色がそもそも持つ美がそっくり抽出され、表現されているかのようでした。私はすっかり虜になってしまい、ミニアチュール展などでも先生の作品を注意して見るようになりました。その後に、井上先生と三沢先生の個展を拝見しました。ギャラリーSで青と言えば、このお三方だと思います。
 私は一度ブログ名を変更したのですが、その際に青という言葉を入れました。刷り込みというか、記憶のどこかに、笹田先生の青が残っていたのかもしれません(あとはジーパンの青ですかね)。井上先生は全身のお召し物を青でまとめられているくらいなので、青という色にどのようなものを見ておられるのか、私に推し量れるところではありません。
 死んでから次の生を受けるまでの中有(バルドゥ)を書いた『チベット死者の書』にはこういう記述があります。

ああ、善い人よ、三日半の間、汝は失神していたのである。失神から目覚めると、自分には何が起こっていたのだろうかという想いが生ずるであろう。汝はバルドゥの状態にあるのだと覚るべきである。その時に輪廻の進行が反転して、ありとあらゆる幻影が光明と身体を持った体で現れるであろう。虚空すべてが紺青色の光となって現れてくるであろう。

 私にとっては「青」がすべてではありませんが、お三方の絵を通じて、青に特別なものを見ることを知ったのかもしれません。少しずつ、時間をかけて。なおblueには「猥褻な」という意味もあるそうで、英語に携わる者として自らの浅学を恥じねばなりません。