群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

煩悩にまみれきる

 断捨離など、必要以上に物を持たず、シンプルな生活を送ろうという風潮があるようだ。いっぽうで僕はというと、ますます本は増える、雑誌は増える、服は増える、ほとんど買うことはないんだけど、図書館で借りたものを焼きまくっているせいで棚はコピーCDで溢れかえり、いまだにテレビのデジタル化がすんでいないにもかかわらず、昔よく観た映画・お笑い・アニメ・プロ野球珍プレー好プレー集・ドキュメント・音楽番組・菅野美穂などを録りためたビデオテープはうず高くたんすの横に山をつくってほこりをかぶり、おまけに最近オオクワガタの飼育を始めたせいで、飼育ケース、飼育マット、餌の高タンパクゼリー、霧吹きといった私物はついに自室というテリトリーを飛び出してリビングにまで侵食しだす状況で、これからも翻訳関係の辞書や資料は増えていくだろうし、好きな本や服も増え続けていくだろうし、ちょっとやそっといらないものを売ったり捨てたりしても状況がよくなる見込みはいっこうになく、行く先を考えると頭を抱え込みたくなる始末である。
 でもまあ、収納なんていうものはなんとかなると思っておけばよいのである。どうしようもなくなったら、それはそのとき考えればよいのだ。そうでも考えないとやっていられない。それに、僕は無意識に自分にブレーキをかける傾向があるから、物の増え方はいくぶん抑えられているだろう。文芸書は図書館で借りて、どうしても読み直したいものだけ買い直すことにしている。カオティックに物が増えていく人に比べれば、僕なんておよびもつかない(都築響一の「TOKYO STYLE」に詳しいが、私物のあり方からはその所有者のメンタリティを垣間見ることができるし、カオティックなメンタリティを持つ人間の私物の増え方は、それ自体が一個の自由意志を持って増殖する暴力的な生命体を思い起こさせる)。
 高校のころ、阪神大震災に被災した直後だった国語の教師が、授業中出し抜けに、「本棚の下敷きになって死ぬとこやってんぞ!」とキレだしたことを思い出す。その教師は変人を輩出することで有名な某国立大の出身で、大人げないことをするなあとそのときはあきれたものだけど、でも、自分の好きなものを、下敷きになれば死ぬほどためこんでいたあの教師のことが、僕は今では嫌いではない。僕もできることなら、心の臓から爪の先まで体中あますところなく、煩悩にまみれきって死んでみたいものである。