群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

「本質」の落としどころ

 仕事というのは、その人間の本質と社会(周囲の人間)のちょうど折り合いがつくところ、だと僕は思っている。
 会社で働いていて、違和感なくやっている人、これは何の問題もない。
 やりたいことがわからない人は、まあ、かたっぱしから思いつくことをやってみるというのも手だと思う。そのうちに自分の本質がわかれば、やりたいことはぐっとクリアになると思う。
 自分の本質というのは、周りの人間のなかで相対化され、あぶり出されてくるところがある。会社で働くのに違和感がある人は、ボランティアをしたり、フリーマーケットに出たり、農家のお手伝いをやってみたり、クラブに行ってみたり、お金を稼がなくてもいいから、人と関わる場所に出てみるといいと思う。
 これがやりたい! というものが見つかった人は最高にハッピーだ。でも、見つかったのが、これだけは絶対にやりたくない! ということだったとしても、それはラッキーだと思う。やりたいことへの手がかりが隠されているはずだ(逆説的ではあるけれど)。
 自分がやりたいことと、向いていることのあいだにズレを感じる人もいるかもしれない。そういう場合は、まるで違うことをやってみたりして、ちょっと視点を変えてみるといいかもしれない。二つの折り合いのつくところが見つかるかもしれない。
 実は、大人になる(大人になるということ自体がもう古いのかもしれないけど)ということは、経済的に自立するということと同義ではない。ましてや、正社員になることでもない。金を稼ぐというのはあとからついてくるものだし、社員になるというのは雇用関係の一形態でしかない。なんらかのかたちで自分なりの人との関わり方を見つけ、構築するというのが、大人になるということであると僕は思っている。
 べつに、すべての人と仲良くする必要なんてまったくない。気の合う少人数の人と、密なコミュニケーションをとりながらやっていくほうが自分には合っているという人もいるはずだ。そういう働き方は探せばあるはずだし、それを探すこと自体も人生の一部だと思う。
 今はネットがあって、それ自体で生きていけるようにもなっているから、僕が書いたことも簡単に論破されてしまうのかもしれない。今はいろいろ面白いと思う。
 まあ、一番やりたいことは仕事にしないという人や、興味の赴くままにコロコロと仕事を変えている人もいる。一概には言えないかもしれないけど、それもその人と社会の折り合いのつき方なのだと思う。かたちは人の数だけあるのではないだろうか。
 僕自身は、わりと“本道”から外れてやっている人に共感を覚える。斜に見るのではなく、反骨心にしてやっていきたい。