群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

春樹読書会

 先日は、芦屋の風文庫さんへ『春樹読書会』へ行ってきました。村上春樹の自分の推し本を紹介する読書会かと思っていたら、ざっくばらんに村上春樹について話すという会でした。
 まあ、色々話題は出たんですけどねえ…。一つ感じたのは、皆さんよく本の内容について覚えておられるなあ、ということ。私は村上春樹をよく読んだのが20代の頃で、しかも読んだ本の内容については結構端から忘れていく、という記憶力の乏しさゆえ、話についていけない場面もいくつかありました(最近は何かしら記憶に残るように、読んだ本の引用をブクログにつけています)。最初は『街とその不確かな壁』の話から始まって、「葱」の話になったんですけど、「葱」って何だったっけなあと…。まったく記憶に残っていませんでしたから…。「好きなシーンとかありますか」とか聞かれたんですけど…。これだったら、『街とその不確かな壁』を再読していけばよかったなあ。
 他にも、村上春樹のアンチの多さについての話もありましたね。行き過ぎた人気や、性描写や暴力描写が理由として挙げられていました。筋書きをよく思い出せないという意見もありました。これはよく分かるなあ。村上の小説って、プロットがないような、次に何が起きるか予測できないような小説が多いですから。そういうところが村上小説の面白さたる所以だと思うし。個人的に『1Q84』以降の村上の小説はあまり評価していないのですが、でも最近の若い村上ファンは、むしろ『1Q84』以降の『騎士団長殺し』や『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のような作品が好きらしいですね。その辺りのお話は聞いていて興味深かったです。
 村上春樹の小説の力が衰えているということは確かだと思うのです。その要因として、一つは彼がとてもフィジカルな作家だということ。例えば村上の小説では、壁を抜けたり井戸を掘ったりというモチーフがあるのですが、壁を抜けるという作業は、作家に本当に体力がないと真実味のある描写にならない。年をとって体力が衰えた分、迫真ある「壁抜け」や「井戸掘り」の物語は書けなくなったのではないか。
 あと一点。村上は『村上春樹河合隼雄に会いにいく』の中で、デタッチメント、物語、そしてコミットメントということを述べています。まず、デタッチメント(関与しないこと)があり、それを物語の形にするということがあり、そしてコミットメント(関与すること)がある。村上の中で、デタッチメントということはずっと課題というか問題としてあったんですよね。『ねじまき鳥クロニクル』で村上は「コミットメント」を書きましたが、作品の方が先行してしまい、自分がそれに追いついていない感覚があった。この作品が自分をどこへ連れていくかは、自分にも分からない。でも今では村上は、スワローズの名誉会員に選ばれたり、ラジオのDJをやったり、色々現実にコミットするようになった。『ねじまき鳥クロニクル』を書いた帰結として今の現実における村上のコミットメントがあって、だから物語を書く必要性がなくなってしまったのではないのかな、というのが私的な印象です。