群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

「みゆき」のみずみずしさ

 あだち充「みゆき」を読んだ。胸がちぎれそうになった。とてもみずみずしい気持ちになった。感性がすごいと思った。
 主人公の若松真人と若松みゆきは、直接の血のつながりはないんだけど、義理の兄妹という関係にある。その事実が、読者に、二人は結び付けないという深層意識を植え付ける。それはいけない、それは禁忌である、と。
 と同時に、あだち充は読者に、若松真人が、女友だちの鹿島みゆきと結びつくには、なにかが足りないという気持ちをも抱かせる。鹿島みゆきは容姿端麗で異性から受けもいいんだけど、コミットメントというものがどこかで絶対的に不足している。若松真人に好意を抱いてはいるんだろけれど、その熱量はたがが外れるほどではないのである。そのどこか足りないところが、僕たちのベクトルを上滑りさせる。
 だから僕たちの共感は、若松みゆきへと向かう。義兄妹という関係にあり、一線は越えられないものの、兄へのいじらしい気持ちが伝わってくる彼女へと。
 しかし、二人は簡単には結ばれない。なんといっても、二人は(義)兄妹なのである。
 そこへきて、ライバル、間崎竜一が現れる。間崎は、若松みゆきに結婚を申し込む。
 僕たちは、思う。若松真人は鹿島みゆきと、若丸みゆきは間崎竜一と結ばれたほうが、そりゃしっくりくるよな、と。何の問題もない。とはいえ、何かもやもやとした感覚が保留される。僕たちは、のどぼとけに何がしか魚の骨が詰まったような感覚に陥る。本当にこのままでいいのか、と。それが本当のハッピーエンドなのか、と。
 僕たちの深層意識は、本当のハッピーエンドはそこにないことを知っている。そのままでも、まあまあのエンディングなんだけど、もっと何もかもをもかなぐり捨ててつかめるエンディングがあることを知っている。
 若松真人と若松みゆきは、お互いを思い合って暮らしてきた。義兄妹という関係で、お互いに一線は越えられないから、そのぶんよけいにお互いを気づかい、慮りあって暮らしてきたのだ。
 そして、間崎竜一と若松みゆきの結婚式で、若松真人の気持ちは、そして僕たちの心の堤は決壊する。禁忌は破られる。
 そもそも若松真人と若松みゆきに血のつながりはなく、結ばれてはいけないような思いを読者に抱かせるあだち充の描き方がうまいとも言えるんだけど、その禁忌が破られたときの、二人のいじらしさが結実したときのヒトコマは、名状しがたくみずみずしい。本当の兄妹のように関係を築いてきた二人が結ばれたからこそのみずみずしさだと思う。
 そのヒトコマ。僕は心の奥底で、このシーンを見るために、「みゆき」を読んできたことに気づかされる。