群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

自分の名前を取りかえせ

 「漱石の孫」ということにあらがい、受け入れ、たたかっているうちに、意地でも「房之介」でとおしてやろうと思うようになった。だからペンネームは使わなかった。やがて僕は自分に自信を持ち、そのぶんだけ自分の名前が好きになった。父につけられた名前を自分で奪いかえしたというか、自力で自分に重ねられたという気がしている。
 名前というのは不思議なもので、自分の名前を受け入れるかどうかは、まさにアイデンティティ(自分らしさ)の問題なのである。

夏目房之介 「漱石の孫」

 僕のファーストネームは、ひどくのんびりした意味合いを持っている。小さいころ、僕はそのファーストネームにどちらかというと好感を持っていた。でもそれは、字面が好きだとか、音の響きが好きだとか、漢字一文字というところが断固としていて格好いいとか、そういう表向きのところに目をとられていたように思う。
 僕がこの名前の持つ重みに気づいたのはわりと最近のことである。経験を重ねるにつれ、好む好まざるにかかわらず、そのファーストネームの意味合いと同じく、僕は自分が持久戦向きの人間であることに気づきはじめた。ものごとにとりくみはじめてから、結果につながるまで、ひどく時間がかかるのである。持久戦に持ち込めばそこは僕の土俵なのだとも言えるが、とはいえ、それは決して簡単なことではない。持久戦には体力もいるし、ぎりぎりのところでの削り合いに打ち勝つ屈強な精神力もいる。そういったものは、日々の積み重ねで養い、育むしかない(そして積み重ねた力で課題を克服することによって、自尊心は確立されていく)。
 瞬発力は美しい。短距離走者のしなやかな体やスピードは、人の目を虜にする美しさがある。自分が短距離走者だったらどんなに良かっただろうと思う。でも、僕は長距離走者なのだ。好む好まざるにかかわらず。
 夏目房之介は言う。父につけられた名前を自分で奪いかえした、と。僕にそれができるとしても、それさえも持久戦になるだろう。つくづく、しちめんどうくさい名前をつけられたものだと思う。