群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

象を洗う

 引き続き、佐藤正午のエッセイ「象を洗う」を読む。軽快な表現に笑う。長年本を読んでいると、救われることもある。やっぱり、文章を書く上でユーモアというのは大事なんだなと感じる…。

 ほかの小説家はどう言うか知らないけど、ひょっとして、小説家にとってのいちばん幸福な時期は、小説を書き出す前にあるのではないだろうか。つまり僕にとっての二十代前半、好きなだけ映画を観て小説を読んでいられたあの長い長い休暇のような五年間。本屋さんで小説をまとめ買いしながら、いつかこの棚に自分の本が並ぶことを夢見られた頃。その夢だけで何とか毎日を乗り切っていけた頃。
 どんな夢にしろ夢は見終わった途端に醒めるものだから、その夢を見ているあいだこそがいちばん幸福だという言い方は、あたりまえといえばあたりまえの理屈である。
 そうすると当然、小説家にとっての二番目の幸福はその夢がかなった瞬間――最初の本が出版されて書店の棚に並んだとき――にしかないということになるだろう。こんなふうに考えてみると、僕は何だかうら寂しい職業に就いてしまったんだな、という気がしみじみする。なにしろ小説家として出発したときすでに、僕はいちばんの幸福と二番目の幸福を食いつぶしてしまっているのだから。
 だが、小説家にはまだ三番目の幸福が残されている。それは新しい本が出版されて本屋さんの棚に並ぶのを見ることである。次の作品を次の作品をと書き続けている限り、小説家にはその三番目の幸福を繰り返し味わう道が残されている。それ以外に道はない。というわけで、今回出版される『彼女について知ることのすべて』という長編小説は、僕にとって三番目の幸福にあたります。  p141-p142

象を洗う

象を洗う

  • 作者:佐藤 正午
  • 発売日: 2001/12/10
  • メディア: 単行本