群青ノート

日常の備忘録、あるいは私的雑記帳

岡山へ

 岡山、倉敷へ行ってきました。岡山では後楽園を見て回り、夜は久しぶりにホテルでお酒を買い込んで晩酌。久しぶりにホテルの個室で一人で飲む酒は美味かったです。後楽園は、あまりに長閑というか、悪く言えば刺激がなくて、個人的には兼六園の方が好みかな…。倉敷は、大原美術館が休館だったのが悔やまれるところ。代わりに倉敷市立美術館で絵画を鑑賞し、十年ぶりぐらいに蟲文庫さんへ行って本を買いました。『忌野旅日記』を購入。つけていただいたポストカード、味があって気に入っています。

 

『どこでもいいからどこかへ行きたい』

 先日、マクドナルドのセルフレジについて文章を書いたのだけど、蟹ブックスのスタッフのphaさんにほとんど自分の言ってること書かれていた。

 店に行くときはチェーン店がいい。チェーン店の店員はマニュアル以外の余計なことを話さない。個人商店のおっさんのように「このへんに住んでるんですか」とか「最近よく来ますね」みたいな余計なことを言わない(そういうことを言われるともうその店には行かなくなる)。
 チェーン店で働いているのは、マニュアルに沿って動くだけの、誰とでもすぐに入れ替わりが可能なアルバイトばかりだ。バイトなんてそれでいい。たかがバイトなんか人間エネルギーを費やす必要はない。そして、そんな人間味を失った店員の前では自分も、社会性や愛嬌を持った人間のふりをしなくても許されるような気がするから楽なのだ。

 もっと欲を言えば、コンビニが全部セルフレジ方式になって今よりさらに店員との接触がなくなればよいなと思っているのだけど。
 僕はコンビニで買い物をするとき、100円のものを一つだけ買うのを躊躇してしまう。そんな安い買い物一つのために店員さんの手や発声機能を煩わせるのは申し訳ない、そんなのは人間の仕事じゃない、とか思ってしまうからだ。そんなに気にしなくてもいいのかもしれないけれど……。そういうときは無理にもう一つくらい別に買うものを探したりする。レジが無人だったらそんな気遣いをしなくていいのだけど。

 もう、ふえ~、としか言えんかった…。まさにその通りの世の中になってるやないの…。さすがphaさんやで…。

マクドナルドにて

 先日、久しぶりにマクドナルドに入った。そうしたら、セルフレジなるものが設置されている。クレジットカードや電子マネーなどキャッシュレス決済に限り、無人自動受付機で注文ができるという。注文が終わったらレシートが出てくるので、あとは店員が品を用意してくれるのを待っているだけでいい。このセルフレジを初めて利用したときは、ちょっとした衝撃を受けた。時代から相当取り残されていることを痛感したし、それと同時に大きな違和感も感じた。ますます街から、コミュニケーションや会話というものが排されていくのか、と。ただ調べたところ、マクドナルドにセルフレジが導入された背景には、コロナ対策としての側面もあるらしい。なるほど、コロナの余波はこのような形で残っているのか。
 でもマクドナルドのセルフレジには、よくよく考えてみるといい面もある。何といっても、コーラのSサイズやMサイズの単品を気兼ねなく注文できるようになったのだ。以前は店員にコーラのSサイズの単品のみを注文するのは、何だか悪い気がして、気が引けた。クレジットカードのほかにもイコカも使えるみたいだし、この先機会があれば、喫茶休憩所としてマクドナルド使ってみようかしらん…。ただ土日のマクドナルドは混むので、結局行くのはホリー●カフェとかになるんだろうけど(そのホ●ーズカフェも土日は混むのである)。
 何だかんだ言って、この先ますますAIを活用した無人レジ化は進んでいくのだろう。そういう時代にあって、「街からコミュニケーションが云々~」というのは時代遅れだろうし、マクドナルドのようなチェーン店にそういうものを求めても仕方のないことなのかもしれない。そういう意味合いでは、ただ消費するだけの店と、「場」としての店は、自分のなかで棲み分けられていくのだろうと思う。

融通小判の交換

 本日は、甲山の神呪寺へ、融通小判の交換に。もうコロナ以降、人類、世界は、ますます悪い方向へ進んでいるとしか思えないのだけど、それでも、いや、だからこそ、世界の平和を祈らずにはおれない。そして家族の健康を。見守り、お導きいただきますよう、お祈りいたします。
 ところで、またもや、デジカメを忘れてしまったワタクシですが、この甲山の神呪寺、境内からは生駒の方まで一望できます。少し登りますけど、ピクニックコースを歩いて、汗をかいて、眼下に広がる景色を見ながら食べるお弁当は、とても美味しい。関西にお住まいの方、ご興味があったら、一度行ってみてください。オススメですよ。

『古本食堂』

 原田ひ香の『古本食堂』読了。神保町で古書店を経営していた滋郎が急逝。彼の店を妹の珊瑚が当分の間面倒を見ることになり、北海道から上京。また、国文科の大学院生である姪孫の美希喜も店を手伝うことになり…というストーリー。
 この本の言葉を借りるなら、「もう書きつくされた小説」とでもいうべき内容なのだが、それでも、静かに、心の裡に残るものがあった。

「確かに、平安時代に、他にもいろいろな物語があったという記録がありますが、そのほとんどは残っておりません。また、その記録にさえ残っていない物語や作者もあるはずです。だから、今、ここに残っているものは末永く残していかなくてはならない。私たち、研究者はその長い長い鎖をつなぐ、小さな鎖の一つでいいではないですか。自分の名前を残そうとか、自分の研究で世間や学会をあっと言わせてやろうなんて考えなくていいのです。ただ、それを後世に残す小さな輪で」
「輪、ですか」
「あなたの職業もそうではないですか、古本屋さんは私たち学者と同じように、本や物語といった文化を後世に残す、そういう輪です。(中略) p262

 学生の頃日本文学の先生が、「既存の価値観の上にわずかではあれ上乗せするようなものが書ければ、それは価値があるのではないか」とおっしゃっていたのを思い出した。そういう意味では、書き手というのは昔から連綿と続く集合知の一部であって、書くことで名を立てるとか、そういうことはあまり意味がないのではないか。何だかそういうことをつらつらと考えて、このくだりには少し、じんときた。
「読書は夢を叶えてくれます」とある帯文は、個人的には「読書は人生を助けてくれます」とも読めた。神保町の食描写もよい。本の周りで生きている人にそっとオススメしたい一冊。

じゃがいもの芽かき、土寄せ、追肥

 春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる~(・∀・)
 じゃがいもの芽かき、土寄せ、追肥をしました。いまだかつて、ろくに収穫を得たことがない、じゃがいものプランター栽培…。何とか今回こそは、食べられるほどには大きいじゃがいもを育ててみたいです。追肥が効くといいのですけれども…。この後、生育に従って、さらに増し土をしていく予定。

桜。

 また桜の季節になりました。先輩が亡くなってから20年間、私はずっと、この花を、一人で見てきたんだなと…。何か、もう、それしか言えんわな…。
 若い頃は桜がいっせいに咲き誇る頃になると、春がきた、という、湧き立つような高揚感、生命感を感じたものですけど、年をとったせいか感性も摩耗し、そういう過剰な感情はなく…。お墓参りも桜の季節にではなく、彼岸に行くようになりましたし、お酒もやめたので、桜の木の下でビールを飲みながら感慨にふけることもなくなりました。桜だ、花見だ、と騒いでいるのは世間ばかり。今、春の桜が私に痛感させるのは、自分が一人であるという事実です。とはいえ、あ、きれいだな、春だな、という感慨がうっすらとではあるけれど湧きもし、あ、まだこういう感情も残っているんだ、と驚きもしますし、忌々しくもあります。

『ことばの白地図を歩く: 翻訳と魔法のあいだ』

 奈倉有里『ことばの白地図を歩く: 翻訳と魔法のあいだ (シリーズ「あいだで考える」)』を読了する。

 翻訳をする前に、翻訳する本の内包する全体像をしっかりと把握し、目的を誤らないためにはどうしたらいいか。答えは簡単で、とにかく読めばいいのである。といっても、ふつうに「読んでみる」ていどではわからないことも多い。個人的な例だが、私の場合は翻訳をはじめる前に10回は通読する。作品の朗読音声やオーディオブックがあるときはおおいに活用する。たまに人から「翻訳が早い」と言われることがある。確かに翻訳をはじめてから完成させるまでの期間はなるべくそれに集中して一気にやろうとするので、そう見えることもあるかもしれないが、ほんとうは翻訳をはじめる前にできる限り多くの時間をとっている。 p126

まずは普通に通読し、「初読の感覚」を覚える。驚いた場面、思わず泣いてしまった箇所、気が緩んで笑顔になったところ、ドキドキした展開など、このときの感覚は特別注意を払わなくともわすれないことが多いが、とくにすごいと感じた場所はしっかりと心に留めておく。大事なのは、この時点では「どう翻訳するか」などということは考えないことだ。なるべく作品世界に入り込み、原語だけで思考し、母語の読者とできるだけ同じように、ただ読むことに没頭し、驚きも涙も感想も思考も解釈も、原語で頭に蓄積させていく。それからまた何度か読み、疑問に思ったところや、資料を調べなければいけない箇所に付箋を貼っていく。全体の構造やリズムが把握できたと思ったら、さらに何度か読んでいく。そうするうちに、ようやく翻訳先の言語である日本語のことを意識しはじめる。つまり、あくまでも自然に日本語が浮かんでくるまで、何度でも読みながらじっと待つのだ。 p128

 この人でも、翻訳する前に10回も原書を読むのか…。おそらく著者には、母語である日本語と同じぐらい鮮明に、ロシア語で原書の世界を見ることが出来るのだろうな。「あくまでも自然に日本語が浮かんでくるまで、何度でも読みながらじっと待つ」。これは、これまで私が翻訳を教わった先生方もおっしゃっていたことだ。最近は私も、いきなり訳すのではなく、できるだけ英語の言葉を自分のなかで沈殿させてから訳そうと努めている。でも、まだまだ上手くいかない。多分翻訳をする際には、読解力だけでなく、話したり、書いたり、聴いたりという、英語の運用能力を総動員する必要があるのだと思う。そして私の場合、英語で見ることのできる世界の解像度がまだまだ低いと感じる。第二言語としての英語で見る世界の解像度を(理想を言えば日本語と同じくらいに)上げることは、従来からも、そしてこれからも変わらず課題なのだけど、何といっても、やっぱりこれは、難しいのだよなあ…。

ニホンイシガメ檸檬さん、冬眠明け

 ニホンイシガメの檸檬さん、昨日冬眠明けしました。今年は起こした、というより、冬眠ケースを見たら底の方で目を覚まして、自分で動いていました。最高気温が19度ぐらいあって、春爛漫、という陽気でした。問題は、この先、また気温が下がる日が続きそうなことでして…。となると、また一時、冬眠ケースに戻ってもらうことになるかもしれません。気を配ってやりたいと思います。ともあれ、また、檸檬さんとの新たな一年が始まりました。