荻原魚雷さんの「中年の本棚」を読む。年齢的にピンズドなので、身につまされるところが大きかった。
それまではどんな単純労働でもやれば何かしらの経験を積めたような気になったし、知らないことを知ったり、できないことができるようになったり、時間に比例して何かが上達する感覚も味わえた。失敗や恥をかくことも何らかの糧になった。それが当たり前のようにおもっていたのだが、このころから当たり前ではなくなる。逆におぼえたことは忘れるし、できたことができなくなる。
いわく、年をとると「はげしい肉体活動」への興味が減少したり、娯楽から教養の分野に関心が移ったりする(読書にかんしても、「空想的な読み物」からノンフィクションに移行する人が多い)。ほかにも「多くの知人を得るよりも少数の親しい友人の方を好むようになる」という傾向も見られる。そして、「自然に対する愛着」が増す。
読む本が小説からノンフィクションに移行することに関しては、まったく当てはまる。昔はよく小説を読んだが、今は息抜きに少し読むくらいだ。
自分はこういう人間だということで、いやならつきあってもらわなくてけっこう。でもつきあってくれる人とは誠心誠意つきあう。それでいいんです。
自分の一生の中で、今日は暇だけど何しようかなというときに、うん、あそこに遊びに行こう、あそこに遊びに行ったら、誰々と会えるんじゃないかなと、そう思える場所があるということ自体がすばらしいんです。
いずれも『女子学生、渡辺京二に会いに行く』の中の渡辺京二の言葉である。この本を読んだとき、わたしは四十代になっていたのだが、ずっとこういう言葉を誰かにいってほしかったのだとおもった。
渡辺京二さんの本から引用されておられるが、このくだりにはじんと来た。
好きなことに没頭すること。ときに怠けること。長年、幸せそうに生きている人を観察し続けた水木しげるは、「古今東西の奇人変人を研究した結果、彼らには幸福な人が多い」ことに気づく。
「人生になんらかの絶対的な価値を求める」必要はない。幸せになる秘訣は、睡眠と適度の貧乏にあり。わたしはそのことを水木しげるのエッセイから学んだ。自慢ではないが、かれこれ四半世紀、実践している。
わたしはむしろ半隠居の道を提唱したい。
働きすぎはからだに毒と考え、休み休み働き、休み休み遊ぶ。なるべく生活水準を低く保ち、散歩と日なたぼっこを心がける。
残りの人生の目標は、訳すことと食べていくことの両立である。でも訳すことは、決して自己を実現するプロセスではない。自分の好きなことだから、そして家で一人で出来る仕事だからである(あとはナリワイとしての側面もある)。自分に忠実に、ありのままのわたしを活かすことを考える。たとえ難しくても先人がいることは励みになる。
それにしても魚雷先生が挙げておられる本は、個人的に面白く読める。今回も新しくジェーン・スーさんや星野博美さんの本を知った。また借りて読もう。
中年の本棚
- 作者:荻原魚雷
- 発売日: 2020/07/31
- メディア: 単行本(ソフトカバー)