最近、ユーチューバーの古着屋パンダさんに感化されて、現行の501を色落ちさせようと躍起になって履いていたワタクシ…。ズームミーティングのときにまで家の中で501を履いて、さすがに飽きてきたので、久しぶりにベイカーパンツを引っ張り出してきました。30代の頃はこれにボタンダウンのシャツなんかを合わせるのが好きで、よく履いてたな。メルカリでDENIMEのジーパンなんかを物色していたんだけど、ジーパンばかりでも何だし、これから先もベイカーパンツ、ちょこちょこ履いてみようかしらん…。気持ちはもう、ゴールデンウィーク。
『どこでもいいからどこかへ行きたい』
先日、マクドナルドのセルフレジについて文章を書いたのだけど、蟹ブックスのスタッフのphaさんにほとんど自分の言ってること書かれていた。
店に行くときはチェーン店がいい。チェーン店の店員はマニュアル以外の余計なことを話さない。個人商店のおっさんのように「このへんに住んでるんですか」とか「最近よく来ますね」みたいな余計なことを言わない(そういうことを言われるともうその店には行かなくなる)。
チェーン店で働いているのは、マニュアルに沿って動くだけの、誰とでもすぐに入れ替わりが可能なアルバイトばかりだ。バイトなんてそれでいい。たかがバイトなんか人間エネルギーを費やす必要はない。そして、そんな人間味を失った店員の前では自分も、社会性や愛嬌を持った人間のふりをしなくても許されるような気がするから楽なのだ。
もっと欲を言えば、コンビニが全部セルフレジ方式になって今よりさらに店員との接触がなくなればよいなと思っているのだけど。
僕はコンビニで買い物をするとき、100円のものを一つだけ買うのを躊躇してしまう。そんな安い買い物一つのために店員さんの手や発声機能を煩わせるのは申し訳ない、そんなのは人間の仕事じゃない、とか思ってしまうからだ。そんなに気にしなくてもいいのかもしれないけれど……。そういうときは無理にもう一つくらい別に買うものを探したりする。レジが無人だったらそんな気遣いをしなくていいのだけど。
もう、ふえ~、としか言えんかった…。まさにその通りの世の中になってるやないの…。さすがphaさんやで…。
マクドナルドにて
先日、久しぶりにマクドナルドに入った。そうしたら、セルフレジなるものが設置されている。クレジットカードや電子マネーなどキャッシュレス決済に限り、無人自動受付機で注文ができるという。注文が終わったらレシートが出てくるので、あとは店員が品を用意してくれるのを待っているだけでいい。このセルフレジを初めて利用したときは、ちょっとした衝撃を受けた。時代から相当取り残されていることを痛感したし、それと同時に大きな違和感も感じた。ますます街から、コミュニケーションや会話というものが排されていくのか、と。ただ調べたところ、マクドナルドにセルフレジが導入された背景には、コロナ対策としての側面もあるらしい。なるほど、コロナの余波はこのような形で残っているのか。
でもマクドナルドのセルフレジには、よくよく考えてみるといい面もある。何といっても、コーラのSサイズやMサイズの単品を気兼ねなく注文できるようになったのだ。以前は店員にコーラのSサイズの単品のみを注文するのは、何だか悪い気がして、気が引けた。クレジットカードのほかにもイコカも使えるみたいだし、この先機会があれば、喫茶休憩所としてマクドナルド使ってみようかしらん…。ただ土日のマクドナルドは混むので、結局行くのはホリー●カフェとかになるんだろうけど(そのホ●ーズカフェも土日は混むのである)。
何だかんだ言って、この先ますますAIを活用した無人レジ化は進んでいくのだろう。そういう時代にあって、「街からコミュニケーションが云々~」というのは時代遅れだろうし、マクドナルドのようなチェーン店にそういうものを求めても仕方のないことなのかもしれない。そういう意味合いでは、ただ消費するだけの店と、「場」としての店は、自分のなかで棲み分けられていくのだろうと思う。
融通小判の交換
本日は、甲山の神呪寺へ、融通小判の交換に。もうコロナ以降、人類、世界は、ますます悪い方向へ進んでいるとしか思えないのだけど、それでも、いや、だからこそ、世界の平和を祈らずにはおれない。そして家族の健康を。見守り、お導きいただきますよう、お祈りいたします。
ところで、またもや、デジカメを忘れてしまったワタクシですが、この甲山の神呪寺、境内からは生駒の方まで一望できます。少し登りますけど、ピクニックコースを歩いて、汗をかいて、眼下に広がる景色を見ながら食べるお弁当は、とても美味しい。関西にお住まいの方、ご興味があったら、一度行ってみてください。オススメですよ。
『古本食堂』
原田ひ香の『古本食堂』読了。神保町で古書店を経営していた滋郎が急逝。彼の店を妹の珊瑚が当分の間面倒を見ることになり、北海道から上京。また、国文科の大学院生である姪孫の美希喜も店を手伝うことになり…というストーリー。
この本の言葉を借りるなら、「もう書きつくされた小説」とでもいうべき内容なのだが、それでも、静かに、心の裡に残るものがあった。
「確かに、平安時代に、他にもいろいろな物語があったという記録がありますが、そのほとんどは残っておりません。また、その記録にさえ残っていない物語や作者もあるはずです。だから、今、ここに残っているものは末永く残していかなくてはならない。私たち、研究者はその長い長い鎖をつなぐ、小さな鎖の一つでいいではないですか。自分の名前を残そうとか、自分の研究で世間や学会をあっと言わせてやろうなんて考えなくていいのです。ただ、それを後世に残す小さな輪で」
「輪、ですか」
「あなたの職業もそうではないですか、古本屋さんは私たち学者と同じように、本や物語といった文化を後世に残す、そういう輪です。(中略) p262
学生の頃日本文学の先生が、「既存の価値観の上にわずかではあれ上乗せするようなものが書ければ、それは価値があるのではないか」とおっしゃっていたのを思い出した。そういう意味では、書き手というのは昔から連綿と続く集合知の一部であって、書くことで名を立てるとか、そういうことはあまり意味がないのではないか。何だかそういうことをつらつらと考えて、このくだりには少し、じんときた。
「読書は夢を叶えてくれます」とある帯文は、個人的には「読書は人生を助けてくれます」とも読めた。神保町の食描写もよい。本の周りで生きている人にそっとオススメしたい一冊。
桜。
また桜の季節になりました。先輩が亡くなってから20年間、私はずっと、この花を、一人で見てきたんだなと…。何か、もう、それしか言えんわな…。
若い頃は桜がいっせいに咲き誇る頃になると、春がきた、という、湧き立つような高揚感、生命感を感じたものですけど、年をとったせいか感性も摩耗し、そういう過剰な感情はなく…。お墓参りも桜の季節にではなく、彼岸に行くようになりましたし、お酒もやめたので、桜の木の下でビールを飲みながら感慨にふけることもなくなりました。桜だ、花見だ、と騒いでいるのは世間ばかり。今、春の桜が私に痛感させるのは、自分が一人であるという事実です。とはいえ、あ、きれいだな、春だな、という感慨がうっすらとではあるけれど湧きもし、あ、まだこういう感情も残っているんだ、と驚きもしますし、忌々しくもあります。